上智大学教育学科創設50周年記念行事
第1部記念講演会要旨
司会:金井 芳枝氏(昭和50年卒)
開会の辞:渡辺 文夫先生
(教育学科長・昭和47年卒)
教育学科創設50周年の今年、5月には学科主催で記念シンポジウムを開催した。本日の行事は同窓会が中心となり計画されたものである。学科と同窓会が協力をしてこのような行事を開催できることは大変喜ばしいことである。本日の講演会は、50年の歴史を皆でふりかえりながら、卒業生と先生方に とってのこの教育学科の意味を、またこれからのことを考えるきっかけになれば幸いである。
講演(1):クラウス・ルーメル先生
(1953年に本学に助教授として着任、以来34年間にわたり「西洋教育史」「比較教育学」「道徳教育の研究」等の講義を担当。現在も「日本モンテッソーリ協会」会長等の要職で活躍。)
私と日本の最初の出会いは、ギムナジウム(ドイツの中等学校)の上級生時代、地理の授業で「日本」についての発表をしたことである。初めて覚えた 日本語は「サムライ」で次に覚えたのは「ミカド」と「ゲイシャ」であった。「ゲイシャ」は最初「ガイシャ」と読んでいた。昭和12年にイエズス会北ドイツ 管区のミッションの一員として来日。このミッションの最重要の仕事がこの上智大学であった。
当時はまだ20歳の頃で、日本語の教科書は小学校の読本しかなく、「ヘイタイ、ススメ」や「ヒノマルハタ、バンザイ」などの文章は今でも覚えている。し かし、当時は日本の文化や精神が良く理解できなかった。来日1年後に東京から広島に移り、そこで当時広島文理大にいらした稲富栄次郎先生に会った。彼は私 に日本文化を理解させようと弓道場に連れて行った。弓道で道を極めた人は的を見ずに矢を当てるという話を聞いて、日本という国は面白い国だと思った。
広島で哲学・神学を学び、終戦の年の7月1日にカトリック司祭に叙階された。1947年7月に管区長代理の命によりイエズス会学校の六甲学院に赴任、ド イツ語・宗教学・音楽等を教えた。その後上智で西洋教育史を教えるようになった。3年後米国に留学、教育学を学ぶ。帰国後、四番町にある中央協議会で学校 関係の実務を担当し、上智では助教授になって茨の道を歩むことになる。
1957年39歳の時、管区長に呼ばれ、練馬の神学部の院長に任命された。また現在の上智の市谷キャンパスは哲学部であった。それから練馬(神学部)・ 市ヶ谷(哲学部)・四番町(中央協議会)・四ツ谷(上智大学)の4個所を回るのが日課となった。当時苦労したことは、四ツ谷キャンパスの聖堂の建設費が不 足して資金集めをするようになったことである。ここから将来にわたる私の募金活動がスタートすることになる。
再び管区長に呼び出されて上智学院の院長に任命されてからは、さらに募金活動に精を出し、7年間に40億円余りの募金を集めた。上智大学退官後も足立区の老人ホーム(友興会)の借金を5年間で無事に返済した。
司会者の紹介の通り、34年間大学で教鞭をとってきたが、実は本職はこのような雑用であった。
講演(2):霜山徳爾先生
(1950年上智大学文学部の助教授に着任。1952年の教育学科の創設に際してスタッフに就任、教育学科の基礎を築かれる。その後心理学科の分離独立に際して心理学科スタッフとして異動。)
皆様とは今でも度々お会いしているが、今日のように一同に会するとまた懐かしい気がする。
私は、上智にくる前はある旧制高校に勤めていた。旧制高校というのは、英国のパブリックスクールのようなもので広く一般教養を勉強することができた。し かしながら旧制高校の数は少なく、ここで学べた学生は同年代の人口の3パーセントに過ぎなかった。新学制になるとき、多少の混乱はあったが、教育は広く大衆のものになった。
戦争中は、私は東大の学生で予備役になり3年間戦争に行った。その頃は上智大学という名はまったく知らなかった。
上智も戦災にあい、1号館と司祭館(SJハウス)を除いて全て焼け落ちた。1号館も神父さんたちの必死の防火活動により難を免れた。その頃から上智を知 るようになり、神父さんたちとも交流するようになった。その交流から私は先進的なものを学んだ。神父さんたちの社会に入ると異文化に入ったような気がしたが楽しかった。
当時の上智は、先生の数も学生の数も少なかったが、学生は地方出身者が比較的多く、人柄の良い学生が多かったように思う。というのも、なかなか学生が集まらず、年度末になると宣伝隊のようなものが各地に説明に行ってやっと集めたような状態であった。
教員も数は少なかったが、康煕字典(中国の辞書)を翻訳した土橋神父をはじめとして立派な先生が多かった。
宣伝隊を出してもなかなか学生が増えなかったので、方針を変えて教育に力を入れた。教員は教室に入ると鍵をかけた。出欠が厳しく、遅刻も許されないので 学生も必死。その代わり時間いっぱい熱心に授業をしたので学生の力は大いについた。3年間は効果が出なくて学生が増えなかったが、4年目からうなぎ上りに学生の数が増えていった。
大学紛争のときは、上智も反乱者の拠点になった。法政などと同じで宮城に近い大学と言う理由で占拠され機能が停止した。
この上智大学のこれからは、この教育学科が指導的な役割をになうと確信している。
講演(3):香川 弘氏
(昭和31年卒、学科3期生。卒業後私立の小・中・高校の教員として42年間教育現場で活躍。一時期本学の教職課程科目「社会科教育法」の講義も担当。初代の同窓会長でもある。)
私は卒業3期生ですが、入学したのは哲学科で教育学科に拾ってもらったおかげで今日までの私の人生が開かれた。
私は昭和3年生まれ、工業学校を出た後製鉄会社の社員として満州に行き、そこで終戦を迎えた。帰国後仕事がなく、昭和22年に香川から上京し、夏休み後旧制の上級学校の工業化学科に入って卒業したが、教師になりたいと思い上智に入学した。
哲学科に入ったが、ラテン語の授業についていけず教育学科に転籍した。私の3期生は全部で6名、1期生と2期生は3名。稲富先生をはじめとして4名の先生にご指導いただき、教員を目指し、無事教員になれた。
小・中・高校の教員として、東京に3年、その後静岡・山口・沖縄(石垣島)に導かれ、4年前リタイアして東京に戻ってきた。
上智の学生時代に連れて行ってもらった玉川学園や栄光学園などの学校参観に私は大きな影響を受けた。私も生徒を外に連れて歩くことが喜びであった。教師にとって教室以外の場での生徒との交流が強く思い出になる。
私の卒論のテーマは「道徳性の発達」で、その後もカトリックの学校に13年間、プロテスタントの学校に5年間勤務して、道徳教育と学校教育に熱心に取り組んだ。
今日の日本を覆っている社会や教育のさまざまな病理現象は、「人を大事にする心」「人を思いやる気持ち」「畏敬の念」が薄くなる中で起こっている問題であり、特定の宗教に偏らない宗教心を豊かに培うことなくして解決することはできないと考えている。
このように上智大学で学んだことは、まさに私のその後の42年間の行動を決めるのに重要な役割を果たしてくれた。
講演(4):乙訓 稔氏
(昭和42年卒。現在実践女子大学教授。本年7月、ペスタロッチ研究により本学にて博士号を取得。稲富栄次郎先生を囲む会「稲富会」の中心メンバー。)
私は昭和38年の入学、昭和42年の卒業。1年生のときの担任が霜山先生で、また結婚式の司式はルーメル先生にしていただいた。
大学受験の時、教育哲学をやろうと思い、上智と早稲田を受験した。
上智に入学後、稲富先生のところに挨拶に伺った。当時の学科は家庭的な雰囲気があり、先生方との昼食会が年に何回かあった。
教育学科会という学生の組織があり、学園祭で研究発表をした。
大学院の時代には、2年下に増渕先生がいて、マスターに高祖先生が入学してきた。そのころ「上智大学教育学研究」を創刊したことが特に印象に残っている。
講演(5):高桑 康雄先生
(1984年本学教授として着任。学科長等を歴任。名古屋大学名誉教授・放送大学客員教授。)
上智大学に教育学科が創設されたのが50年前の1952年、同じ年の3月私は大学を卒業して教師になった。教師歴50年ということになる。50年のうち上智には1984年から1996年までの12年間お世話になった。
東工大の助手から、国学院大・名古屋大そして上智大と経験してきたが、上智が一番思い出深い大学で、自分が卒業した大学よりも親しみを持っている。
これは上智の着任した時に新聞に書いたコメントだが、私の大学時代の指導教官であった岡部弥太郎先生が、東大を定年で退官後、国際基督教大を経て上智に着任されたことを知っていたので、上智に誘われたとき非常に光栄に思った。このようなことも上智が最も印象深い理由だと思う。
私の大学時代の同級生で、米国ミネソタ大学名誉教授である高瀬さんと偶然連絡がとれ、四ツ谷で会ったところ、上智の社会人講座を受けていた彼女にとっても懐かしい場所であることを知った。上智は昔から社会人教育にも熱心に取り組んでいる大学だと思った。
私が着任したときは尾形俊雄先生が学科長で、1年目の私を教育課程委員に任命したときは驚いた。2年目からは委員長を仰せつかった。
私の在籍した12年間は教育学科が大きく変化する時期であったとの印象が強い。1987年3月にルーメル先生が退官され、翌年3月には尾形先生と清水義弘先生が退官された。私が一気に学科での最年長になった。
もうひとつの転機は大学院の心理学専攻が教育学専攻から分離独立したことである。この大仕事も今は亡き平井先生や西川先生の助言をいただきながらやり遂げた。
今日教育学科は学部再編の動きを受けてまた大きな転機を迎えている。
私が教育学科に12年間在籍して強く感じたことは、学生間のつながりが良い伝統を守り受け継いでいるということである。このことは学生の大学に対する帰属 意識の強さが起因しているのではないかと思う。このことはすばらしいことである。上智を退官後4年間勤務した江戸川大学で、上智出身の先生2名とよく話を したが、2人とも印象の良い方であった。
もうひとつ感じたことは、教育学科の学生の視野が広いことである。卒業後の学生は教育分野に限らず幅広い分野で活躍されている。しかしどこかでやはり教育のことを考えている。コンピュータの会社に就職してもシステムエンジニアの教育について関心を持っている。これが教育学科の学生の特徴だと思う。
またもうひとつ、教育学科の学生は「自分は自分の道を行く」という独立の意識が強い。それぞれ自分なりの視野をもち、自分の行き方を追及している。外国へ行ってそのまま定住している人もいる。
伝統が保たれ、しかも視野が広いということは大変すばらしいことである。
仕事の関係で知り合った方が思いもよらず学科の卒業生であると知ることがある。同窓会の役員の豊田勝弘さん(昭和39年卒)もその一人で、視聴覚教育の分 野で大変すばらしい仕事をされて、功労者の賞をお受けになった。自分の守備範囲の中で、学科の卒業生が大きな役割を果たしていることを大変うれしく思う。
今日のような学科の創設50周年記念行事が同窓会によって開かれるということも他では類のないことである。今後の同窓会に期待することは、組織を今以上に強固にしてほしいということである。例えば、同じ地域で生活をしている卒業年度の違う卒業生が互いに連絡が取れてさびしい思いをしないで済むようなことが、同窓会のシステムの中に組まれているとさらに良いのではと考える。
さらに75年、100年に向けて学科も同窓会も充実していかれることを心より願っている。
講演(6):舟川 紹子氏
(平成4年卒。学科卒業後、紀伊国屋書店勤務を経て、学童保育のボランティアやドイツ・ポーランドへの海外派遣の経験。現在は神奈川県庁に勤務。)
教育学科での4年間は楽しい思い出ばかりである。研究室にもしょっちゅう顔を出していた。
卒業後、紀伊国屋書店に勤めたが、どうしても子供にかかわる仕事をしたいと1年でやめた。神奈川県の青少年協会を目指すが落ちて、障害者の子供の平等教育をいる横須賀市のキリスト教社会館でしばらくボランティアをしていた。
海外派遣の経験をして、帰国後神奈川県庁に行政職として就職。県庁では3年ごとに異動がある。教育長の教職員課で教員を採用するための仕事をした後、子ども医療センターで経理とパソコンをやることになる。
最近では、明治から続いている発明協会が主催する「創意工夫展覧会」のお手伝いをした。先生方が熱心に指導されて発明品のアイデアを出された。ゼムク リップを使ったシャボン玉製造装置などを子どもたちが一生懸命作る姿に感動した。今の子どもも機会があればいろいろな能力を開花すると思った。そのために これからも微力ながら手助けをしていきたい。
総括:高祖 敏明先生
(本学教授・上智大学理事長)
まず教育学科創設50周年を迎えたことに対して、同窓会の方々にお祝いを申し上げる。またこれまで学科の礎を築かれた歴代の先生方、現在の学科を させている先生方、そして今回の教員リストには掲載されていない人間学担当の越前喜六先生に感謝申し上げる。さらに歴代学科の事務を担当してくれた方にも お礼を申し上げる。
何より良い伝統を作り、社会にでて活躍されている卒業生や学生がこの学科を支えてくれている。
私が教育学を学ぶ中で一番記憶に残っていることは3-521教室での稲富先生の「教育原理」の最終講義でした。大学院ではルーメル先生の存在が大きかった。
教育学科50年の歴史の中で私は大体半分の期間に関わってきました。考えてみると教育学科は4つのステップで発展をしてきたように思う。
初めの草創期は、稲富先生・神藤先生の時代。第2の時代はルーメル先生・平井先生の時代。第3の時代は高桑先生が学科長をされた時代で、教育学科のカリキュラムに生涯教育・国際教育・教育哲学思想の3本の柱ができた。そして第4の時代が今日及びこれからの時代である。
同窓会は、1977年の学科創設25周年行事をきっかけに香川会長・豊田事務局長でスタートした。以来5年ごとに記念行事を開催して今日の50周年を迎えた。
我が上智大学の今後ということで工事が始まった新2号館の計画について説明をさせていただく。(以下略)
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